2007/9/9(日)武道教育
いよいよ学校の必須事業で、武道が再開されるという。
精神基底を造るには小学生くらいから行っても良いのだが、問題は教える側の 資質 である。
しっかりと武道の本質をわきまえ、本物を教えることができるのだろうか。
ただ単に礼儀とは仁であると教えても、何の意味すらない。
また、単に格技を教えても然り。
仁愛を武道と言われても然りである。
また自由を誤解し、リベラルに走り、精神基底のない宙ぶらりんを育てるだけだ。
武道とは不動心を養い、恥を知る精神基底を造るためにある。
それは礼に表れ、らしさを造り ペルソナ (精神的仮面) となる。
厳かに進められ、人生免疫のために己を戒めるものであり、決してリベラル形式で行うものではない。
きちんとした武道を教え、礼儀正しく不動の心を持つ人間を造るのか、リベラルのみのナマビョウタンを造るのかを考えなくてはならない。
「動かざること山の如し」とは、無意識にあたりまえの如く構成された「義」から、醸(かも)し出されるものだ。
神によって愛で構成されたものが一神教であるなら、崇高なる死によって構成されたものが「義」である。
犠牲的危機感の中、愛は愛で情動行動するし、義は義の情動行動をする。
無意識の構成は違うが、両者は意識で同じ事を行うのだ。
前者がそれを出来なかったときは、神を裏切ることになるし、後者が出来なかったときは崇高なる死に連鎖する「恥」となる。
恥の文明とは崇高なる死の文明なのだ。
現代日本は世界一自殺の多い国として有名だが、決してその崇高なる死から来るものではない。
自殺とは行き詰った心の病気のようなものであり、その人が強いとか弱いとかの問題ではないのだ。
誰にでも起こり得る病的症状の結末であり、多くの場合がストレスから来るものである。
私には来ないと思っても、どこからショックは現れるか分からない。
それは精神基底とかの問題ではないのだ。
だから掣圏真陰流では、第一期情動からヒビかせない術を養うのである。
情動回路は、扁桃核から副腎質ホルモン刺激ホルモンを副腎質まで運び、ノルアドレナリンやコルチゾールを排出し、自律神経を乱させ、ノルアドレナリンとなって辺縁系に逆流して混乱を脳へ起こさせる。
現代武士道が心をコントロールできるのは、情動を 生理的 に整えることと、戦闘トランス状態へ 入ることが出来ること である。
心の動きが解かれば、今どのような状態にあるかが把握でき、整えることが出来るのである。
この動きを出来やすくするには、精神基底を造ることから行う。
掣圏真陰流はその構築を全て把握しており、最上級の戦闘トランスという、催眠性変性意識まで持っていくことが出来るのだ。
精神生理学に精通した武道は、他者に施術までも出来る。
なぜなら、ウツやストレス障害なども、その回路は同じであり、心が怖いのは、あなたの知らない神経系統からも病魔に導かれるということだ。
興義館では有段者に、その催眠療法を教え始めている。
近い将来、桜木や瓜田が催眠療法者にもなり、精神基底の構築まで教育できることになる。
私のイメージする現代武道とはそういうものだ。