最新情報 2008年3月

2008/3/28(木)

なぜ佐山は催眠をやるのか?
武道の追求が来るところまで来ているからに他ならない。
と、考える人は果たして、この日本に何人いてくれるのだろう・・・。
もしかして世間では、佐山が催眠を好きでやりだしたのだと思っている人がいるのでしょうね。
実は、私、密かに苦笑いしています。

掣圏真陰流の理論をもう一度見直してみましょう。
圏とは自己と、対人、あるいは対あらゆる物とに生じる、物理的あるいは精神的な間合いです。
精神的な間合いが武道では圧力といえますが、圧力を解明すると、環境という微弱なアプローチから、雰囲気、態度、言葉へという圏に影響されるものです。
圧力とは最終の圏段階であり、対物を意識する前の環境が神経アプローチの初期段階で、それは自己の内面的な神経のスタートともいえるのです。
この距離を「気」と呼ぶ人もいますが、自己の気は自身の環境から始まっていて、その奥に第九識があります。
環境とは一見微弱ですが、誰でも影響されるものであり、心が豊かであるか、行き詰っているかという状態にもなります。

実は、豊かさとは不動心と同じ神経であり、貴方がプレッシャーに追い込まれたとき、何も影響されない精神状態であるなら、その生理的な基本状況は心の豊かさと同じものなのです。
脳波でいうならばベータ波の上あたりか、ガンマ波の状況下であるはずなのに、自己の生理的な状況が、ベータ波の下からアルファ波にいるという状態です。
ようするに何があろうと落ち着いていて、神経的な視野が広く保て、全ての状況が読め、体が最大限に動くことです。

なぜ私が松永先生の密教が凄いとか言っているのかは、九識論を科学的に克明にしているからです。
自然学とは環境のことをも解析していることです。
先生は見るだけで、豊かな環境かそうでないかを見分けます。

そして多くの宗教家は心の豊かさを言います。
密教の真実が科学であるなら、そのアプローチも歴史の深さも、私が放っておくはずがありません。
プレッシャーに対して影響されないという神経は、無意識から沸いて来るからです。

自分ではコントロールできない神経である無意識は、自律神経にも影響され、意識に出てきます。
微弱なものからプレッシャーまで、無意識をコントロールできる有効なものが変性意識なのです。
変性意識とは催眠状態もそうですが、催眠でなくともできます。
催眠とは変性意識を呼ぶ手段の一つなのです。

そして催眠にも色々あり、現在は大きく二つに分かれています。
古典催眠と現代催眠です。
古典が古くて使えないというのではありません。

古典催眠は一挙に深く入って行き、自律神経を大きく変え五感に影響させます。
皆さんが見るショー催眠もこの方式です。
しかし催眠暗示行動に出やすい人は約50パーセントといえ、ショー催眠では行動に出やすい人を、あらかじめテストをしておきます。
25パーセントの人は、あまり行動しません。
そして25パーセントの人は、行動しないのです。

一方、変性意識状態は行動するかしないかに関係なく、全ての人が入ります。
心因的暗示はここで行うのです。
行動暗示と心因暗示は別物と考えてもよいくらいです。

現代催眠は反対に、浅く入れる知恵を持ちます。
意識と無意識の中間あたりで暗示を交換し、自己が自身を見つめる変性意識上の暗示ができ、診療的には最適なのです。
勿論深く入れることもできます。
20世紀の催眠の雄、ミルトン・エリクソンを見本に、催眠先進国アメリカでは、複数の団体が現代催眠を行っています。
NLPは、神経言語プログラムを構成する方式です。
言語と五感と無意識心理を解明し、催眠に誘導していくのです。
浅くも深くも対話もできます。

私が催眠を初めて行う人を、知らず知らずの間に言葉だけで催眠状態に持っていけるのは、この神経言語を使っているからです。
しかし術者にとって、催眠(変性意識)に誘導するのは簡単なことです。
問題は暗示法にあります。
月二回行っている催眠学会は読書会とも呼ばれ、外国の最新の暗示情報を学んでいます。

神経言語プログラムが何であるかを把握するということは、神経心理を把握することであり、圏の心理が何であるかを克明にする、という状況があるのです。
精神武道「掣圏真陰流」は、神経掣圏プログラムを行うものだからです。
現代催眠方式は言葉だけの誘導で圏を操作しますが、掣圏は言葉ではなく戦闘態勢において、圏を操作するということになります。
「神経環境プログラム」「神経言語プログラム」「神経態勢プログラム」があり「第九識」があるということです。
掣圏士達が将来、この術を学び、柔道の世界が整骨を行うように、掣圏士は心を把握し、有能なセラピストにもなるでしょう。

そして武道「掣圏」は、「義」と「礼」と「勇」を育てる変性意識に包まれた真実が表れるという、もの凄いものの完成を目指しています。
私が武士道を復活させ、現代に現る真武道を興すというのは、こういうことです。
掣圏士は真の勇が暴力ではなく、義であることを学ぶのです。
観客は審議員となって目撃する資格があるのです。

2008/3/23(日)

佐山恐るべし!
最近、自分をそう思う。

月に二回行っている催眠の学会ですが、いつも実に有意義な形で進み、私も大変充実しています。
外国の最新催眠情報を、その場で訳しているのですが、ミルトン・エリクソンが晩年極めた、現代催眠と言われる手法は、それだけセラピーに適しているものなのです。
従来の催眠法は古典催眠と呼ばれていまが、それは、古く機能しないものではありません。
両者は誘導の仕方に違いがあり、暗示の目的にも違いがあるのです。

古典催眠は半強制的なイメージで誘導して行き、強制的な暗示に導きます。
強制といっても被催眠者が強要されているのではありません。
一方、現代催眠は暗示自体が誘導であり、晩年エリクソンが歳老いていくに従い馬力が無くなり、その分、巧妙になったことから編み出された手法だといいます。
その後NLPが神経言語としてまとめますが、ようする五感を支配し、催眠状態(変性意識)に導くものです。

催眠の世界には、瞬間催眠というのがあります。
勿論私も行えますが、過去に催眠(変性意識)を体験し理解できている人か、事前に催眠に入れておいた人に出来るものなのです。
現代催眠は言葉のみで誘導できます。
一方、古典催眠は急速に入る特徴がありますが、古典催眠の一つが目的とする、行動(ショー)催眠状態にならない人もいるのです。

現代催眠は緩やかな入り方ですが、ほぼ100パーセント催眠状態に導き、また心理的に深く入っていく特長があります。
言葉の一つ一つが神経言語プログラムと考えられているからです。
しかし行動的な催眠もセラピーに有効なこともあります。
また、両者を組み合わせることもできます。

なぜ私が恐るべしかというのは、何も意識していない人に、しゃべっているだけで、いつのまにか催眠をかけられるようになったからです。
貴方も私としゃべっていると、いつの間にか催眠に入っているかもしれませんね。

実は私というよりも、エリクソン恐るべしと言えます。
NLPの神経言語は数々のセラピーパターンが存在し、またアメリカでは新たに開発されており、私達は月2回の学会で最新を学んでいるのです。

先日の試合は参りました。
天龍さんの水平打ちにも参りましたが、試合中、右足の神経が無くなり、膝だと思っていたのですが、担架で運ばれ控え室に戻ったところで、腰の外側の痛みが始まった次第です。
実際は膝が着いた衝撃で、右股関節を亜脱臼し、腰の外側じん帯損傷というはめになっていたのです。
翌日、中野の後藤先生の所で矯正していただき、今は歩けるようになっております。
全治あと一ヶ月くらいでしょうか。

天龍戦でしかもタッグなので、体力をつけスピードだけだと思ったのが大間違いでした。
タイガーマスク動けません。6月は凄いカードをやる以上、94キロにします。
全治まで自転車で練習します。

先日、我が道場に、松永先生がお見えになりました。
密教恐るべし。
先ほどの神経言語とは身体内の反応ですが、科学密教はそれだけでなく、その前の人が影響される、環境や雰囲気の流れをも見ます。
先生は道場に入るなり、全てをチェックし、なるほどと唸るような指摘をされました。
それは宗教ではなく、完全に建築学とも呼べるものでした、面白いですね密教。
人の神経学が解る私にとって、その凄さはよく分かるものなのです。
神経学の上に自然学があるのですから。
近く、道場の雰囲気が変わります。

私が切れたら大変怖いと言います。
ちょっと待ってくれ!
私は一つの長ですよ!
この業界の連中が分りますか?
怖い業界をチラつかせる者、スキあらば町人拝金を強要する者、ただの詐欺師、警察と業界を使い分け陥れる者、癒着したどうしようもないマスコミ。

人は見方を変えれば、音を立てるように分ることがあります。
私は目的のために進まなくてはならないだけです。
義を構築した者が、偽を許すはずがないでしょう。

「義」は正義でも義理でもなく、人心を構築する固いものです。
「仁」も人心を構築するものですが、柔らかいものです。
「偽」は人心を崩壊へ向かわせる、悦びの麻薬みたいなものです。
どれも世の中には必要なのですが、義が強すぎると国は固くなり、仁が強すぎると国は柔らかくなりすぎます。

しかし偽が強すぎると全てが崩壊するのです。
この国が偽を叩けない国なら、崩壊するだけです。
もし貴方自身が、偽を信じて乗せられている姿であるとするなら・・・・。

何が普通で当たり前の精神なのか、何かを気づく方向を見つけてみませんか?
無窮塾のスケジュール調整で日程がチグハグしましたが、私の講演会「プリンシプル」は近々行います。

2008/3/11(火) 真掣圏

武道を創る それが私の生涯の仕事である。
現在、進行しているあまりにも壮大な作業は、まだ誰にも理解できないのはしょうがない。
ただの武道ではないからだ。
日本の文化を継承し、さらに進化した最高峰の精神文化を育てたい。
日本を支配し、日本を恥じ、日本を利用している姿を、真の武道で変えることが出来たら・・・。

武道の原型「武士道」は、精神基底の礎として我が国に定着した、史上最も崇高な文化の一つである。
武士道本来の姿をかみしめ、さらに現代に最高の科学を加えた、最新武道を創るのが、私の真の目的なのだ。
25年前、私は格闘技を体系化していたに過ぎない。それらはルールや選手を技術的・体力的に育てることを意味するだけであった。
武道とはさらに奥深く、人の心を造るものである。

そもそも武士道とは何か?
諸説色々あるが、定義されたものはない。
各藩で違うものであるし、現在文献で残されているのは、鍋島藩の葉隠と、水戸藩の水戸学しかないという。
前者は禅を基底に、後者は儒教を基底にしている。
明治に諸外国に解りやすく書かれた書物もあるが、偏見を持つ人は少なくない。
私は科学密教を取り入れ、さらに現代科学の奥をも見てみたい。

そもそも「武」とは鉾を掲げ足で歩くという字体で、兵が勇ましく堂々と隊列を組み行進するという意味だ。
ご存じの通り、武士道とは軍事政権であるが、その修め方は無頼の輩を造るものではなかった。
彼らは義と勇と礼をふまえ、社会的価値観を武士道として造り上げた。
一方、現世界の価値観を造り上げてきた一神教の力は、社会的に増えゆく普遍的価値観を、精神基底で確保し一体となる、モラル感や正義感を構築してきた。
両者は神と義、愛と死で形は違うが、その精神基底では同じように働いている。

武道は戦いのためではなく、精神基底や人間としての基盤を造るものだ。
それが現代日本では両方が無く、唯一の精神基底が金となろうとしている。
宗教を毛嫌いしながらも、お金が宗教になっているのだ。
確かにお金は大切だが、その上に良い社会性がなくてはどうしようもない。
国は荒れ、モラルが無くなり、普遍的一体感が壊れてしまう。
欧米の金持ちと、日本の金持ちに違いがあるのはこのためだ。
彼らにはお金の上に神がある。

愛で構成された価値観が一新教の世界であるなら、武士道は死で構成されたものだ。
それは単に死ぬことではない。
彼らが愛で人を助けたり、正義の重みを構築しているのに対し、武士道は人を助けなければ恥であり、その精神的基底は、助けることをしなければ自己死(切腹)に値する、というものである。
自己死とは自殺ではない。死で構築された正なる価値観の証なのだ。
何々でなければ「恥」と言うのは、義を死で背負った姿なのである。
正義と義の違いである。

武士道の証は死で純粋なる精神性を保ったが、現代社会において死の証は受け入れられるものではない。
だからこそ、科学武道があるのだ。
掣圏真陰流はその目的を練りに練った、精神武道である。
武士道本来の純真なる姿を、死を越えた「生」なる価値観で、死の価値観に劣らず、義を構築する精神作用で構築するものとなる。
生きるために構築する「義」
これが掣圏真陰流の姿なのだ。

最新武道とは、常に最新の科学を駆使し進むものであるが、その基本的目的は、武士道から逸脱しない。
よって私の武道は、武士道の原点の中、常に進化するものと考える。
将来この武道の継承者達は、自立・仁愛・義・勇という、基本姿勢を捨てず、時代の科学に乗っ取って進化しなければならない。
迎合したり飾ることなく、武士道本来の「お家」や「藩」を守り治めるための、神聖なる掟であったことを忘れてはならないのだ。
現代なら国家である。
当時は、剣術や弓術などの術があり、それらは全て藩を守護するために、心と体を、礼儀ある真の強さで構築してきたのだ。

正々堂々と戦い、精神的強さを義に構築するための姿がある。
武士道は精神的目的のために様々な術があり、かくして一神教の教義を育てるような、身体育成イコール人間形成であるのだ。

精神統一と儀式

人には情動があり、その前に感情があり、その前に気分があり、その前に雰囲気があり、その前に環境がある。
精神統一とは自己を、その道へ入らせる段階の心身状態だ。
ただ目を閉じ落ち着かせるのではない。何一つ煩悩を無くし集中する姿である。

科学武道が何かというと、例えば、不動心という言葉がある。
何事が起きても、平然と毅然たる態度をとれる事だ。
生理学的には、五感で入力された情報が、自己の無意識構築に危機的情動と反応したとき、副腎皮質ホルモン刺激ホルモンが分泌され、自分ではコントロールできない自律神経の、交感神経に反応してしまうのを、無意識レベルや自律神経レベルで安定させることだ。
意識でも観念の転換と副交感神経の上昇技術でそれは出来るが、無意識へ直接影響させる催眠は、より有効な手段なのだ。
おまけに副交感神経を勝手に上げていく。

催眠とは変性意識という、無意識の集中である。
練習前の精神統一というのは、聖なる自己を構築してくれる闘いの世界に入り、不動心で隆起覚醒するための、自己催眠誘導なのだ。

その初期段階は没入であるが、その前に催眠反射反応があり、その前に、どの催眠ルームも落ち着いた部屋であることから分かるように、環境がある。
もっとも、高度なテクニックを持つ者は、どんな劣悪な環境でもそれらを利用し、催眠に導くものである。
又、晩年のエリクソンやNLPなどによる現代催眠は、浅く入れて有効な暗示を入れていくものである。
一方、古典催眠は古くてダメなものというわけではなく、かえって現代催眠よりも深く入る。
馬力がある時のエリクソンは、これを行っていた。

両者は目的によって使い分けるものだ。
私は両方やるが、古典でも現代催眠の手法を使うことにより、よけいに入っていくことになる。
現代催眠とは、心理的なことに応対しながら進める手法だ。

一方武道における儀式は、厳正なるイメージを使い、変性意識へと転換させる要である。
強さ、礼儀、不動心、義を持つ侍のイメージ。
浅く変性意識に入ることで、それらは心に定着してくる。
催眠がすべてではないが、心理の科学作用がここにすべてを集約させているのだ。
最近、催眠の学会に参加させてもらい、NLPの最新手法を勉強させてもらっているが、私にとって言語だけで催眠に導くのは、そう難しくなかった。
いかに催眠言語的に導くかというのと、その最新のアメリカからの情報は、大変役に立っている。
もしかしたら最先端にいるのかも知れない。

真掣圏は大きく前進した。
礼儀や儀式、闘いにおける、精神基底を構築する心理的な姿。

私が修斗を創っているとき、当初、八角形のリングを登場させたのはご存じであろう。
現在はアルティメットがこの八角を取り入れてくれているが、大変喜ばしいものだ。
当時、アメリカからある人が取材に来て、「素晴らしいアイデアだ。特許を取っておいた方が良い」と言われた。
その人は違うだろうが、格闘技を金に変えようとする町人拝金主義者たちは、ことあるごとに特許特許と口走る。

当時、八角はコーナーが四角より鋭角でなく、組み技の競技に適していると言っていたが、本当の意味はまったく違う。
私は何か決定的な義がほしかった。
それは闘いの象徴でもあるし、神聖なものでなくてはならない。
ズバリ八角は「高御座(たかみくら)」の意であったのだ。
武の神、神道の象徴である。
「八角でやってくれている人達ありがとう」と、ひそかにいつも思っている。
日本の神の象徴で試合をやってくれているのだから。

オープンフィンガーグローブにしても、当時私は籠手のイメージで開発していたのを思い出す。
何も言わず、町人拝金主義者達に仕掛けていた私の手法である。

なぜここで言ったかというと、いよいよ真掣圏を行うからだ。
八角形の試合場、オープンフィンガー。
一方、もうこれ以上開発する格闘技はないと、拝金者達は言う。
アッハッハと笑うしかない。
元々目的が違うのだからしょうがない。
ついに本物を出す時が来たようだ。

心退かず、神聖なる誓いという儀式場に武心を植え付ける真掣圏。
今、テストを繰り返し最終議論を行っている。