最新情報 2009年3月

2009/3/30(月) 4月4日プリンシプルについての再告知

身内も間違えているようなので、改めて発表します。
4月6日(月)は武士道講演を行いません。
4月4日にプリンシプルで、杉山さんに来てもらい、武士道とは何なのかを講演してもらいます。

杉山さんは武士道を通じて、若者が何を求めているかを話し合いたいそうです。
一言に武士道と言っても、百人が百通りあり、誰も説明できないのです。
杉山さんは普遍的にすべての知識があり、総体的な武士道の真実を語ります。
私は現代武士道の開発ですから、「だから日本はどこへ行けばよいか」と、論じ合います。

もちろん先着30名様で、予約制にさせていただきます。

場所 掣圏真陰流・興義館 文京区本郷三丁目6-13太平ビル2F
日時 2009年4月4日(土曜日) 午後3時(開場2時30分)
申し込み受付 興義館 03-3812-1202
会費 1500円(当日支払い)
講師 武道通信 杉山頴男
興義館 佐山サトル

2009/3/27(金) 初代タイガーマスク×藤原喜明 トークバトル

日時 2009年4月11日(土) 16:00〜18:00
場所 掣圏真陰流・興義館 文京区本郷三丁目6-13太平ビル2F
募集人数 50名 ※定員となり次第締切とさせていただきます。
申し込み受付 興義館 03-3812-1202
参加費 3,000円 ※当日支払い
お申し込み方法 下記のホームページからお申込み下さい。
SoprtsClick:初代タイガーマスク×藤原喜明 トークバトル 参加申し込みページ
※ご参加のお申し込みは興義館とプロレス・マスク・ミュージアムでは受け付けておりません。
お問い合わせ ベースボール・マガジン社インターネット事業部
TEL:03−3238−0157(平日9:30〜17:00)

2009/3/27(金)

若者の熱さは正義に宿る
武士の行動は、義に宿る

古来、戦における志気の基、構成されし忠義の掟と、信ずる導き。
民主主義たる現在において、現代武士道の義をどこに置くべきか?
世の潔さこそが正義だとすれば、マスコミに誘導されたポピュラリズム主義を正義と感じ、大きな脱線を余儀なくされる。
次回プリンシプルは、現代武士道の義をどこに構築するかが、深く解るでしょう。

真の強さとは?
全共闘の戦いも正義であり、警察の戦いも正義でした。
裏にある世界の真実と陰の術が解らなかっただけです。
存続への幸福をかけ、どこに進むべきなのか、それを解ってほしいのです。
一つの道を決めなければなりません。
世界の真実を見て、行動ある義を構成すべきなのです。

新渡戸稲造の武士道は、当時のキリスト教社会に武士道を理解させ、日本の道徳観が武士道を通じて、あなた方のようにすばらしいものであることを伝えたものです。
本来の武士道とは各藩やお家に山とあり、現在文献に残っている少数のものを照合させ、当時の状況を想像するしかありません。

杉山さんはその専門家中の専門家です。
思う存分、本物の武士道が何だったのかを勉強してください。
大東亜に散った二百十三万の侍の意志も解るでしょう。
古来の精神基底と、現代の真実を見据えた精神基底の位置。
現代あるべき基底の真実を、皆さんに理解してもらいたいのです。

2009/3/25(水) プリンシプル

4月6日に予定していた武士道講演ですが、4月4日土曜日3時よりプリンシプルとして開催いたします。
(よって、前回告知した4月6日の開催はなくなります。お間違えのないよう)

私はふとこの講演が大変重要だと考えました。
むりやり杉山さんに頼みこみ、プリンシプルとしてこの企画をお願いしたのです。
今や武士道が何であるかの大専門家でもある杉山さんに、武士道をレクチャーしてもらい、侍の精神基底を知り、現代になぜプリンシプルが必要なのかを説明したいのです。
もし武士道と現代武士道を交互に比較すれば、佐山武士道を明確につかんでくれると思ったのです。

場所 掣圏真陰流・興義館 文京区本郷三丁目6-13太平ビル2F
日時 2009年4月4日(土曜日) 午後3時(開場2時30分)
申し込み受付 興義館 03-3812-1202
会費 1500円(当日支払い)
講師 武道通信 杉山頴男
興義館 佐山サトル

2009/3/21(土) 「現代社会にあって<サムライ>でありたいとするなら」

いよいよ興義館本来の姿、武士道塾を開講する準備を整えています。
元々興義館の主旨は義を興す館であり、格闘技のみを教える所ではありません。
現代の武士道を構築し、サムライを育てる機関として興した道場なのです。
ご存知のように今は最新武士道としての定義を固めています。
勿論、既存の武士道を知り、科学や倫理を採り入れた、現代のサムライとしてのプリンプルでなくてはなりません。

この度、武道通信の杉山頴男先生と共に、現代の若者が何を考え、何を欲しているかを、セッションして参考にしてみることになりました。
私たちは知識と理論のみで実戦の伴わない、武士道のオタクではありません。
現代をサムライとして実戦していく、真のサムライプリンシプラーを育てたいのです。

死を乗り越える死生観とは何か

武者の掟で構成された死の規範文化「武士道」
最近の日本人が無くしている、根性とかいうものでもすまされない死生達観の構図。
武士道の死生観は根性論をはるかにしのぐ、集中力を持つものとなる。
しかし現代は、死ぬことを基底にすることが当然のごとく許されない。
死なくして、死を超越する死生観を持つことはできるのか?
プレッシャーに恐れることを知らず、義が当然のものとして機械行動する不動の人間像。

「武士道とは死ぬこととみつけたり」
この有名な言葉の意味は、死ぬ気でやれば生きられるというものだ。
果たして侍の死生観において、死を越えたものとは?

「敷島の大和心を人とわば 朝日ににおう 山桜花」

そこには普遍的無意識の美があるのだ。
武士道とは武者のプリンシプルである。
よって両者は一致する。
そして科学武士道はさらに変性意識や術によって超越していく。

鎌倉の武士道、室町の武士道、桃山の武士道、江戸の武士道、明治の武士道、昭和の武士道
いずれも尊厳ある死を基底に規範が造り上げられた。
恥の文化と言われる由縁も、出しゃばらず静なる不動心の美意識や、おごらない正義心も、すべて規範死文化の蓄積である。

よく欧米人に「日本人は何を考えているか解らない」と言われる。
控えめで、表現にジェスチャーもなく、発言もしない。
日本人が出しゃばらなかったり控えめなのは、我々が死の文化を受け継いでいるからである。

しかし現代国際舞台などで、発言できないのとは意味が違う。
戦後、確固たるアイデンティティの普遍的無意識を消され、方向性が見えてない者ばかりだからだ。
良し悪しは別とし、かえって戦前の日本の方が、世界へ向けて堂々と発言をしていた。
今は信念無く、票のために格好だけ発言する者はいても、恥をかくのが関の山となる。

我々は意識で生きる欧米人ではなく、無意識で控え行動する精神文化人だ。
無意識は意識の10倍の許容量がある。
義を最も大切にし、世界でも例をみない精神性。
但し、それが物理的に強かったわけではない。
これからの精神性は、礼儀や大儀への強さだけでなく、戦略戦法や情報や科学に長けなくてはならないのだ。
正々堂々と、というだけのものではならないのである。
世界の文化も理解し、共存し、堂々とし、長けなければならないのだ。

杉山頴男&佐山聡による「サムライ塾」
《サムライに学ぶ自己<奮起・奮激>セミナー》

☆開講にあたり、受講希望生に対するプレ講習
「現代社会にあって<サムライ>でありたいとするなら」

場所 掣圏真陰流・興義館 文京区本郷三丁目6-13太平ビル2F
日時 2009年4月6日 午後7時〜9時
申し込み方法 杉山頴男事務所へメール(のみ)にて sugiyama@budotusin.net
年齢・男女不問(氏名 年齢 職業を明記の上。受講の理由があれば幸い)
締め切り 2009年4月3日
会費 1500円(当日支払い)

2009/3/6(金) 現代「武士道」とサムライ像

「武士道とは死ぬことと見つけたり」の「葉隠」は、禅の思想や陽明学の思想を得て、当時の若者にカツを入れる家老の愚痴とでもいうもので、戦国時代から安定した時代において「最近の若いものは」と、当時の大人が抱いていた危機感をまとめたものである。
「水戸学」は儒教の朱子学を官学とし、広く徳川体制を整わせるために、侍のあり方を説いたものである。
「敷島の大和心をたずねれば 朝日ににほう山桜花」は、江戸中期に入り、本居宣長がまとめた「国学」であり、当時千年にも及ぶ仏教思想などではなく、日本独自の文化をまとめたものである。

現代、キリスト教観念社会において、武士道はどう生きるべきなのか。
また、宗教観を持たない日本人を嘆く声もある。
しかし、現代学として大変やりやすいことでもあるのだ。
なぜなら、現代日本人は科学や民主主義を信奉しているからである。
そうすると、いくら古来の武士道精神を復活させようとしても、うまく型にはまるはずはない。
そして時代は来る、宗教観を持たない者が、心を弱くし、荒廃する姿を目のあたりにするからだ。
本来武士道は宗教ではない。
現代武士道とは真の強さのための科学である。
精神基底を強さのために科学で構成し、プリンシプル(主義・原則)を抱かせるものなのだ。

真の強さとは何か。
格闘技?いったい何のためにある?強さとはまったく関係ない。
リング上で強くともリングを降りての強さとはならないからだ。
売るためにバカらしいパフォーマンス。
髪を染め、入れ墨を入れ、カッコイイ売れると思う愚者共。
侍であれば鼻つまみどころか、論外である。

本来の武士道とは、当時であるなら「お家」を守護して行く、無礼無き士である。
キリスト教社会が「愛」で構成されているなら、武士道は「死」である。
元服までに切腹の作法を備え、腰に日本刀という責任ある武器を携帯した彼らは、決して無頼の輩にはならなかった。
現代格闘技の状況は、精神基底を持たない者の醜態的姿に過ぎない。

では、現代武士道のサムライ像とはどういうものか?
絶対にあってはならないことだが、戦争に行ける者達のことである。
入れ墨を入れ、マリファナを吸いながらではない。
国体思想(当時はお家)を真摯に受け止め行動する、プリンシプルを持つものである。
礼儀に長け、確個たる思想を持ち、歴史を誇り、自国だけではなく国際社会に通じ、普段は不動の穏やかさを持ち、義のために狂愚(良い意味での)の行動ができる人なのだ。

狂愚を秘めたる穏やかな人の像とは、現代に分かりやすくいえば、外見上はジェントルマンの姿である。
今日、服装にこだわらないといわれるが、ペルソナ理論からもサムライであるなら絶対に外見にも、プリンシプルを示すべきだ。
カミシモや袴などを、きちんとすべきであったように、現代であれば、ジェントルマンの姿である。
そして髪型や装飾品にもプリンシプルを持つべきだ。

何が流行だ!
もし中年のぼけサラリーマンが流行の頭を意識し、ムースで髪を逆立てでいたら、白州次郎は、ひっぱたきたくなるだろう。
もはやファッションではなく、モテない男が女狂いしたとしか見えない。
モテるためのファッション?
当時の侍がそんな発想をするはずもない。
サムライならサムライらしい態度とファッションでモテろ!
異性にモテない者はろくでもない。
格好や騙してでもモテようとする者は、さらにろくでもない、はちぐらいである。

ジェントルとは穏やかという意味だ。
紳士であり穏やかな姿がジェントルマンであり、現代のサムライの外見上の姿である。
そして心に日本刀を抱いているのが、現代のサムライ像となる。

私達は何の精神基底をも与えられず、荒廃していく若者を救おうとしています。
社会に何を求めるか、現代武士道に何を求めるか、近々皆さんとセッションをして、現代武士道を構築するひとつの礎にしたいと思います。